何者にもなれない
にゃんぱす
ブログさぼって怠惰な生活という名のオカリナで時の重ね歌を奏でていたれんちょんですん
ここ2~3日、めうさんと喧嘩したり、自分の生きてる意味を無駄に問うたりしてぼんやり生活してましたん
めうさんとは和解をし、頑固で感情が高ぶりやすく、落ち着くまでそれが脳内反芻で周期的に何度も呼び起こされるウチの性格は今後もいろんな人とのトラブルの原因になると強く思ったので
「アンガーマネジメント」
について少しずつ勉強していこうと決意した次第ですん
そんな中、ウチは
(性格もこんな感じで社会的ステータスや周囲に誇る能力や資格もない・・・)
(twitterのひょろわー達は、何かを一生懸命やってる人もいるのに自分は一体何者になろうとしているのか・・・)
と漠然とした不安や虚無に襲われるようになりましたん。
ですのでとりあえずこのブログでぶちまけてみるか、という次第で更新してるところですん。
これを書きながら、ウチ自身の論理でこの問題に解をつくってみましたん。
それは
何者かになる/なれないというその【何者】は、
世間一般で言う【肩書】がほしいのでなはいか?
それは社会が作り出した都合のいい虚構・架空の価値観
なので故に何者にもなれない
というものですん
冷静に考えればそうですん
ウチと同じ年齢、同じ性別、同じくらいの容姿である人が何人いたとしても目には見えない性格や心は全く異なり、その違いは過去の経験や環境が違うから当たり前であり
要はウチはもう既にウチという、誰もが到達できない「何者」かにはなっているのんね
・・・そう考えると少し気持ちが落ち着いてきましたん。
誰かのために、社会のために、世界のために頑張って生きていると言えば高尚な感じに簡単になれますが、その高尚さもこの時代この国だけのローカルルールかもしれませんしのんね。動物界ではそういう高尚な話はあまり聞かないし、人間はしょせん動物。
そんな感じでゆるっと答えを出してみましたん。
リビドーが解放されたのんね
ふぅ・・・(唐突)
今回はここまで
れんちょん