にゃんぱす日記

ウチの日記兼遺書なのんなー

他人の不幸は蜜の味ただし中毒性アリ

にゃんぱす

 

ここ二日間、乾いた咳と肩から首にかけてのコリがひどくて少しまったりしてましたん

 

どうやら寒暖差と低気圧に体調が左右される感じなのん、どうしたもんかね

 

さて、タイトルの通りですが、タイムラインに会社や恋愛やその他人間関係のことで辛いといったツイートをちょくちょく見る季節になってきましたん

 

自分の人間としての性格の悪さを承知で書きますが、たまにそんな感じのリアリティのある内容を見ると

「この人は、今悩んでることやそれ以外のことが追加されてもっともっと苦しんだらどうなるんだろん」

と少し興味がわいてきたり

「そうやって自分の無力さや泣き言、自分では自分ではどうにもできないことをウチもよく愚痴で言ってたなぁ」

としみじみ思ったりしますん

 

ウチが思うに、

他人(特に自分が嫌悪してる価値観の人たち)の不幸を知って高揚感を得るのってなかなか中毒性があると思いますん。

相手が

「苦しい」「つらい」「自分はだめだ」

と伝えようとすればするほど、それを知った自分は

「割と楽しい」「それぬ比べれば幸せだ」「自分は割とマシ」

と、自分が相対的に高いところから相手を見下ろした、余裕のあるメンタリティになりやすいからだと思いますん。

 

言い変えると、

自身の快不快の感情やお気持ちなるものは、自分が認知しうる世界に存在する比較対象から自身が創造する主観的なもの

 

ではないのかなと思いますん。

 

例えば、ウチがこの日本の5本の指に入るような有名ユーチューバーのヒカキンやヒカルやはじめしゃちょー等と同じ店で相席になってご飯を食べることになったら100%卑屈になってしまうと思いますん。

 

なぜなら彼らはYoutubeで何百万人ものファンがいてお金もあり、多くの人のためになるようなことをしており、すべての面でウチは負けてると思い込んでしまうからですん。

 

これが逆に自分よりも収入が少なく、身長も自分より小さく、落ち込み気味でチー牛で人間関係もなかなかしんどそうな人と同じ飯を食べることになると謎の安堵感が出てくると思いますん。

 

つまり、今の自分の性格というのは周の環境に起因するという事例は割と身近にあり容易に想像できるということですん。

 

これは哲学の「構造主義」の考え方に似てると思いますん。


www.youtube.com

まぁ、ウチ自身たいしたことないにんげんですが気持ちはどうであれ実際ひとと接するときは明るく笑顔で誠実さを見せていけるような人間になりたいと思いますん。

 

 

以上

 

今回はここまで

 

れんちょん